1話完結
とある狼と人間の話
『今日は何をしに入ってきたんだ?』
「いつもお世話になってるから、食べ物もって来たよ~!きっと少ないけど!」
『なんだ。お前を食べていいのかと思ったのに』
「食べてもおいしくないからダメ!」
『いやいや、分からない分からない』
人間よりも遥かに背丈の高く、太い樹が生い茂る深く暗い森の中。
唯一開けた場所、僅かに差し込む陽光に当たりながら会話をする一匹……いや、一体の巨大な魔物と人間の少女。
黒く艶のあるふさふさとした毛並みの狼の魔物。
牙が見え隠れする口を少女に寄せて臭いを嗅ぐように鼻をひくつかせ、その度に少女の髪が鼻息に吸い込まれるように靡く。
「もう、ダメッたらダメ!」
『クク、はいはい。臭いは甘くて旨そうなのにな』
尻尾で少女の身体をくるんで傍に引き寄せ、グッと身体を丸めて。
子犬を抱く親犬のような状態にして。
『なら、お前を捕まえて眠ろうか。ちょうど眠い』
「あ、なら先にコレ食べてよ!」
『ん?』
少しばかり顔を上げてそちらを見つめ。少女が持っていたバスケットの布を取って中を見せる。
香ばしい肉の臭いと、若干の甘い臭い。
『なんだ?人間の食べ物か?』
「ミートパイ焼いてきたの!狼さんだし、お肉食べるよね?」
『まぁな……お前を襲ってた魔物も獲物として獲ったに過ぎなかったし』
「ちょっと冷めたけど、おいしいと思う!」
はい、とバスケットから出して手で差し出してくるその少女の作った料理。
臭いを嗅いでから、そろりと舌を伸ばして手の上からその物体をさらう。
噛み切るほどの大きさもないそれを口の中で転がし、潰して何とか味わう。
嫌いではない、と思うが。
『水が欲しくなってくる食べ物だな』
「あ、やっぱり!冷めるとちょっとバサバサするんだよね」
身体を狼から抜き出し、水辺のほうに歩き出す。
狼はそれを眺めていたがやがて身体を起き上がらせて伸びをしてから、離れていた彼女にほんの数歩で近づいて後ろからその服をそっと咥えて持ち上げる。
「はわわっ」
あわてる少女をポイッと軽く後ろに放って背中に落とす。
『人間はとろいな』
「はぅえ~……うぅ、そりゃ、唯の人間ですもん」
背中に放り投げられた衝撃に少し目を回しつつ、少女はその背中にうつぶせになってその毛を掴んで落ちないようにする。
バスケットもしっかりと腕に通していたため無事だった。
「狼さんは普通の魔物より少し大きいよね?」
『この大きさで少しか。お前の基準が良く分からんな』
「あまり魔物さんと会ったことないし」
『会うな会うな。エサと認知されるのがオチだぞ。実際、あの魔物がいなかったら俺はお前を食べてたしな』
「えぇ?そうかなぁ……」
少女の呟きに答えは帰ってこず、直立すれば大木より若干小さいくらいの身体で狼は小ぶりな草木を踏みつけつつゆっくりめのスピードで水場へと向かう。
少女は背中から落ちないようにしつつ、周りの速いスピードで眺める景色を見つめ続けていた……
「やっぱりここの水って綺麗だよね!」
『獣に近いものしか来ないからな』
水場……大き目の泉に着くなり、狼は身体を傍に落として休ませ、少女は背中から滑り降りる。
それを横目で見つめつつ、泉に視線を戻してから顔を寄せると舌をつけて水を飲む。
少女も横に座り、両手で水をすくって飲んでいた。
「うん、おいしい!」
『それは良かった』
「そういえば狼さん。眠いんじゃなかったの?」
『あぁ、まだある程度はな。なんだ?昼寝に付き合ってくれるか?』
「うーん、どうしよっかな」
夜になるとこの森が危ないのは実体験済みだし、と考える少女に、狼はクッと小さく笑った。
『また何かに襲われたりしたら今度は本当の意味で助けてやる。
それに、夕立が過ぎていた頃になれば入り口傍までは送ってやるから。安心するといい』
クアァ、と大きな狼らしいあくびをしてから先ほどのように尻尾で少女をくるみ捕まえると傍に寄せて丸まる。
「もう、狼さんってなんか甘えん坊さんだよね」
『……誰のせいだ、誰の。一人がつまらないと感じさせてきたのはお前だ。責任を取れ。ルナ』
「こうして掴まってることで責任は取れてるの?」
『……好きに解釈しろ。寝る』
「……はーい。じゃぁ、私も寝るね。狼さんあったかいし」
身体を自分から少女……ルナがピトッとくっつけて体毛に体を埋めてくれば、ピクリと彼は反応するも。
そのまま彼女を一度見つめて、瞳を閉じる。
ルナもそれを見つめた後で、大人しく体を埋めて瞳を閉じた。
心地よく温かい狼の体温を感じつつ、やってきた睡魔に身を預けていた。
しかし。
高かった陽がどんどん下がり、夕暮れを過ぎ宵に差し掛かる頃。
狼より早く目覚めた彼女は、周りと自分の状態を見て、あ。と小さく口を動かす。
眠い瞳をこすり、狼にできるだけ刺激を与えないように抜け出して。
「……篭が、ない……」
狼に上げたパイ以外にも、自分の荷物が入っている。
一応は大事なものなので少し困った表情をして空を見上げた。
「……そう、離れた場所にはないよね……?」
狼を起こすまでも、ないだろう。と。
不安な気持ちを若干抱えつつも、気持ちよさそうに寝ている彼を起こすのはなんだか忍びなくて。
彼女は恐る恐る、闇夜のように暗くなっている森の中に足を踏み入れた。
自分の足音すら大きく感じる、静かで何処か冷たい、魔物がいる森。
危険なのは分かっているが、荷物は捜さなくては。
薄く星明りが照らす明るめの道を歩いていき。
やがて、その先にある暗い、踏み入ったことのないような真っ暗な闇のまん前に、ポツンと置かれている自分の篭を見つけて。
「あ……私の篭……!」
安堵して声をあげ、思わずそちらに駆け寄った。
篭を持ち、取っ手が若干酷いことになっているが中身や他の部分は無事だった。
安堵の息が漏れるところだが。
それは、見知った魔物の狼とは別の生温く、生臭い何かの息で奥へと引っ込んだ。
冷や汗が流れる。
硬い動きで闇の中を凝視した、その瞬間に見えたのは。
自分と同じくらいの大きさをした、二つ首が生えて顔同士がくっ付いているような奇妙な、おぞましい四足歩行の魔物が唸っている姿だった。
べっとりとしている体毛。
立ち込める異臭に今更気がついた。
闇に目が慣れてきて、奥にいくつもの骨が、腐った肉があることを知って。
思わず吐き気がこみ上げる。
獣なのに、口元がニタニタと気色悪くめくれ上がり、つり上がり。
恐怖でルナをすくみあがらせるには十分なものがあった。
篭をギュッと抱きしめる。
血の気が引くのを、久しぶりに感じていた。
ベチャリベチャリと気味の悪い足音が近づいて。
近寄ってきたその顔と四つの目に射抜かれ、震えるだけで身体はまったく動かない。
腰が、抜けた。
魔物が此方に後数歩、という距離まで近づいて来たと同時に。
断続的な地響きが起こって、魔物が動きを止めて周りを見回す。
そしてその瞬間に。一気に周りが暗くなった。
ドズゥゥッ!!
形容しがたいそんな音と、身体を浮かび上がらせるほどの衝撃。
地面が縦に揺れた。
魔物もその場に倒れて更に腐敗した土で身体を汚す。
そしてその瞬間。
ズァッ、と目の前にいきなり黒いものが現れて、身体全体を捕まえられて持ち上げられると同時に。
グッチャァッ!と熟れたトマトが潰れるような音と、魔物の小さい断末魔が聞こえたような気がした。
「あぁ気色の悪い!こういう狡賢さのある低能な魔物が一番嫌いだ!同属だなどと考えたくもない!」
何処かで聞いたような声が上から響いて何回か足音を響かせると、一際大きい衝撃が来た。
黒く生暖かい空間から開放され、温かい床の上にへたり込んでいる自分が見上げたのは、遠近法が狂ったように巨大な顔。
耳のあるところには、狼の耳が横向きに生えている。
「お前はなんで起こさない!もう少しでアイツの胃袋の中だぞ!」
見覚えのない巨人の男性に怒鳴られ、ルナは混乱しつつ思案を纏めようと頭を抱える。
それを暫く見ていた男性は息を吐き顔をグイッと近づけた。
「俺が誰か分からない、なんていうつもりじゃないだろうな?」
「えーっと……」
「……あれだけ懐いておいて」
「……おおかみ、さん?」
「……そうだ」
顔がゆっくりと傍により、呆然としたルナの言葉に縦に振られる。
ふわりとした毛髪が揺れ、嗅ぎなれた臭いがルナの鼻腔をくすぐる。
あ。
狼に身を預けたとき、感じるこの臭い。獣臭さ。
顔から視線を離し、乗っている場所から身体を見れば黒い動物のような体毛がぴったりとした衣服のように身体の所々を覆っている。
彼はどうやら座っているようだが、木の天辺に近い場所が自分と同じような位置にあって軽く目を白黒させているときに。
「なんだ?どうした?とりあえず俺の問いかけに対する返答がまだだぞ?ルナ。
何で起こさなかった」
「はわっ!!」
何でこんなに大きく、と思っている間に言葉を投げられ、鋭利な爪が生える指先で手の平に押し倒された。
怪我をさせないように、指の腹で腹部を軽く押されただけだがそれでも、コロリと文字通り手の平で転がる。
「さて、なんでこんなことになったのか、説明してもらおうか?本気で心配したんだぞ」
「えぇっと……お、起きたら篭がなくなってて……!すぐ見つかるだろうって、それで……!!」
「……そうか。確かに人間にあの場に残った若干の腐敗臭は嗅ぎ取れないしな……
ふむ……まぁ、仕方ない。次からはちゃんと起こせよ」
「うん……ご、めんなさい……っ」
指先で頭を撫でられることに若干の戸惑いやなんともいえない感覚があるが、それでも。
優しいその手つきに安堵して、恐怖から開放されたと理解して。
ポロリと涙がこぼれる。
止まらないそれに目元を覆うと、彼女は小さく嗚咽を漏らしだす。
「あぁ、泣くな……困るだろうが。
まったく、お前は本当に世話が焼ける」
「だって……!」
目をごしごしとこすってから、また周りに影が落ちて。
上を見上げると、狼の嗅ぎなれた生臭い吐息が吹いてきた。
犬歯が覗く唇が薄く開いて、伸びてきた狼のときとは違う分厚い舌先が顔を舐める。
「んむっ」
「……ほら、しょっぱい。お前はそんなものを流すな」
グイグイと舌先で顔を舐められ、離されると唾液で湿ったそこを指先が軽くこすりぬぐう。
彼にとってはチロチロと優しい舌捌きだっただろうが、結構な力強さがあって軽く戸惑う。
「お、狼さんって……巨人にもなれたの?」
「いや、むしろこっちが本来だ」
「へ?」
「狼は化けているだけに過ぎん。身体も隠れやすいからな」
この大きさだと目立ちすぎる、とルナを撫でていた片手を握ったり開いたりして大きさを見せ付ける。
自分の身体と同じくらいある手が開閉する様がなんだかすごくて、ルナはジッと思わずその動きを眺め続けていた。
「お前を捜すために変化をといたが、今度は夜目が利かなくなる。困ったものだ。
何とか腐敗臭だけを頼りにそちらに移動してお前を見つけられた。まったく。次からは本当に一人で動き回るな」
この森ではな、と父親か兄のように注意してくる巨大な獣人。
その言葉にルナは暫く顔をうつむかせていたがやがて、笑って。
「えへへ……はい、分かりました!ごめんなさい」
「分かればいい。友を失いたくはないからな……だが、少し仕置きは必要か?」
「へ?」
「クク、暴れるなよ?」
「え?え??」
少し意地の悪い顔で笑う狼だった彼の口が傍により、ルナの身体を無理に後ろに向かせると同時に舌先が背中を舐め上げる。
ゾクッ、と身体が震えたと同時に、服が後ろに引っ張られる感覚。
上の服が胸に突っかかるまでめくれ上がり、足場も下がる。
やがて、宙ぶらりんな状態になってルナは目を白黒させた。
「え?狼さん!?え?あれ!?」
「ははへぅな(暴れるな)」
「はぅわっ!」
後ろから聞こえたものを口に含んでいるような反論。
それに驚いたルナが上を見れば、生温かい息が漏れる二つ穴。
「……?ぉい、はにいへる?(おい、何してる?)」
「えーっと……狼さんの、鼻……見てます」
「ひぅな!ほんなはひょ!!(見るな!そんな場所!!)」
「だ、だって見えるんだもん……」
小さく反論を返すと同時に、グンッと身体が揺さぶられる。
「うひゃっ」
「ククッ、ほほぅぞ(戻るぞ)」
「え?戻るっていった?え、でも、どこに……!?」
周りを見回し声を上げている最中に、身体が風と衝撃に揺れる。
一気に高くなっていく視界に目を回しかけて首を振り、下からやってきた彼の指が身体をそっと押さえて揺れを止める。
離される指先はそう離れることはなく、自分の下に添えられるように動きを止め、彼が歩き出す。
人間が歩くときもきっと、こんな風になるんだろうなと考えるほどの縦揺れをルナに感じさせながら。
暫く口に咥えられて揺られること数分間。
一際木々が鬱蒼と茂る場所に連れてこられた。
しかし、ところどころ木々の葉っぱの隙間から月明かりが入り込み神秘的な感じを受ける。
昼間なら日差しがカットされ、過ごしやすい木陰になることだろうなと感じさせるほど。
広いその空間に、巨大な彼が入ってもある程度のスペースはある。
奥の草木が敷き詰められているような場所に近づくと、彼は身をかがめてその上にルナをそろりと降ろす。
彼を見上げると同時に、今度は狼に一瞬で切り替わった様子を見れば首を傾げた。
「何で戻っちゃうの?……いや、戻るというか、逆に化けるの?って聞いた方がいいね?」
『あの姿だとお前と寝たとき潰してしまいそうで怖いからな。
……人間の身体は小さくか細く、脆く壊れやすい』
狼姿で後ろに回りこむように移動し、また尻尾と胴体にルナを挟み捕まえると草木が敷き詰められているその上に身を横たわらせる。
「狼さん?」
『もう遅すぎる時間だ。今町に帰っても夜道は危険だろう。
今日は俺の住処で寝ていくといい』
「狼さんの家なの?」
『あぁ。ここは俺の住処だ』
「……綺麗なところだね。えへへ、お邪魔します」
『ゆっくり休め。危ない目にもあって疲れただろうからな』
狼の鼻先が頬をこするように押し付けられ、擦り付けられる。
それに笑顔で頷くと、また狼の体毛に身体を埋めた。
「気持ちいい」
『それは良かった』
「おやすみなさい、狼さん」
『あぁ、お休み』
自分の数倍も大きさが違う人間の少女が自分に身を預けて眠る。
もう寝入った少女に、なんて寝つきの良さかと苦笑して、彼はその身体を守るようにくるりと丸まると寝顔を横目で見つつ小さく笑うと同時に思い出す。
【あの!私ルナって言うんです!助けてくれてありがとう!狼さん!】
口元を血に染めた自分を見上げて、恐怖に顔色を悪くはしていたものの、それでも気丈に笑顔で感謝を述べるルナに。
少なからず興味を持ってしまった。
物足りなかった魔物の次に、食おうかと考えていた捕食の対象が、そう見えなくなった。
久しぶりに会話をした。
久しぶりに敵意なく触れてもらえた。
魔物にも時間がたてば感情や理性や、知識は蓄積され芽生えていく。
生き物だ。当然の摂理といえた。
魔物の自分と仲良くしてくれるこのか弱い少女を、護りたいと思うようになるのに時間も掛かりはしなかった。
『ルナ』
自分は魔物で、何年もまだ生きる。
人間より長寿なのは、魔のものだから。理解している。
自分より若いこの少女はすぐに消えていく。
花開いたような今の時期もすぐに消えて、枯れて行くだけ。
『人間は命が短い。魔の物からすれば儚すぎるほど』
気持ちよく眠る彼女に、囁く。
暫く寝顔を見つめていたが、彼はやがて瞳を閉じた。
『それでも、お前という人間の友を失いたくないと思う俺はワガママなのだろうな』
この呟きは誰に対して言っているのか。
自分でも理解できなくて、彼はククッと小さく笑い。
彼もまた、まどろみに落ちた。
身体に愛らしい友の体温や心音を感じながら。
「いつもお世話になってるから、食べ物もって来たよ~!きっと少ないけど!」
『なんだ。お前を食べていいのかと思ったのに』
「食べてもおいしくないからダメ!」
『いやいや、分からない分からない』
人間よりも遥かに背丈の高く、太い樹が生い茂る深く暗い森の中。
唯一開けた場所、僅かに差し込む陽光に当たりながら会話をする一匹……いや、一体の巨大な魔物と人間の少女。
黒く艶のあるふさふさとした毛並みの狼の魔物。
牙が見え隠れする口を少女に寄せて臭いを嗅ぐように鼻をひくつかせ、その度に少女の髪が鼻息に吸い込まれるように靡く。
「もう、ダメッたらダメ!」
『クク、はいはい。臭いは甘くて旨そうなのにな』
尻尾で少女の身体をくるんで傍に引き寄せ、グッと身体を丸めて。
子犬を抱く親犬のような状態にして。
『なら、お前を捕まえて眠ろうか。ちょうど眠い』
「あ、なら先にコレ食べてよ!」
『ん?』
少しばかり顔を上げてそちらを見つめ。少女が持っていたバスケットの布を取って中を見せる。
香ばしい肉の臭いと、若干の甘い臭い。
『なんだ?人間の食べ物か?』
「ミートパイ焼いてきたの!狼さんだし、お肉食べるよね?」
『まぁな……お前を襲ってた魔物も獲物として獲ったに過ぎなかったし』
「ちょっと冷めたけど、おいしいと思う!」
はい、とバスケットから出して手で差し出してくるその少女の作った料理。
臭いを嗅いでから、そろりと舌を伸ばして手の上からその物体をさらう。
噛み切るほどの大きさもないそれを口の中で転がし、潰して何とか味わう。
嫌いではない、と思うが。
『水が欲しくなってくる食べ物だな』
「あ、やっぱり!冷めるとちょっとバサバサするんだよね」
身体を狼から抜き出し、水辺のほうに歩き出す。
狼はそれを眺めていたがやがて身体を起き上がらせて伸びをしてから、離れていた彼女にほんの数歩で近づいて後ろからその服をそっと咥えて持ち上げる。
「はわわっ」
あわてる少女をポイッと軽く後ろに放って背中に落とす。
『人間はとろいな』
「はぅえ~……うぅ、そりゃ、唯の人間ですもん」
背中に放り投げられた衝撃に少し目を回しつつ、少女はその背中にうつぶせになってその毛を掴んで落ちないようにする。
バスケットもしっかりと腕に通していたため無事だった。
「狼さんは普通の魔物より少し大きいよね?」
『この大きさで少しか。お前の基準が良く分からんな』
「あまり魔物さんと会ったことないし」
『会うな会うな。エサと認知されるのがオチだぞ。実際、あの魔物がいなかったら俺はお前を食べてたしな』
「えぇ?そうかなぁ……」
少女の呟きに答えは帰ってこず、直立すれば大木より若干小さいくらいの身体で狼は小ぶりな草木を踏みつけつつゆっくりめのスピードで水場へと向かう。
少女は背中から落ちないようにしつつ、周りの速いスピードで眺める景色を見つめ続けていた……
「やっぱりここの水って綺麗だよね!」
『獣に近いものしか来ないからな』
水場……大き目の泉に着くなり、狼は身体を傍に落として休ませ、少女は背中から滑り降りる。
それを横目で見つめつつ、泉に視線を戻してから顔を寄せると舌をつけて水を飲む。
少女も横に座り、両手で水をすくって飲んでいた。
「うん、おいしい!」
『それは良かった』
「そういえば狼さん。眠いんじゃなかったの?」
『あぁ、まだある程度はな。なんだ?昼寝に付き合ってくれるか?』
「うーん、どうしよっかな」
夜になるとこの森が危ないのは実体験済みだし、と考える少女に、狼はクッと小さく笑った。
『また何かに襲われたりしたら今度は本当の意味で助けてやる。
それに、夕立が過ぎていた頃になれば入り口傍までは送ってやるから。安心するといい』
クアァ、と大きな狼らしいあくびをしてから先ほどのように尻尾で少女をくるみ捕まえると傍に寄せて丸まる。
「もう、狼さんってなんか甘えん坊さんだよね」
『……誰のせいだ、誰の。一人がつまらないと感じさせてきたのはお前だ。責任を取れ。ルナ』
「こうして掴まってることで責任は取れてるの?」
『……好きに解釈しろ。寝る』
「……はーい。じゃぁ、私も寝るね。狼さんあったかいし」
身体を自分から少女……ルナがピトッとくっつけて体毛に体を埋めてくれば、ピクリと彼は反応するも。
そのまま彼女を一度見つめて、瞳を閉じる。
ルナもそれを見つめた後で、大人しく体を埋めて瞳を閉じた。
心地よく温かい狼の体温を感じつつ、やってきた睡魔に身を預けていた。
しかし。
高かった陽がどんどん下がり、夕暮れを過ぎ宵に差し掛かる頃。
狼より早く目覚めた彼女は、周りと自分の状態を見て、あ。と小さく口を動かす。
眠い瞳をこすり、狼にできるだけ刺激を与えないように抜け出して。
「……篭が、ない……」
狼に上げたパイ以外にも、自分の荷物が入っている。
一応は大事なものなので少し困った表情をして空を見上げた。
「……そう、離れた場所にはないよね……?」
狼を起こすまでも、ないだろう。と。
不安な気持ちを若干抱えつつも、気持ちよさそうに寝ている彼を起こすのはなんだか忍びなくて。
彼女は恐る恐る、闇夜のように暗くなっている森の中に足を踏み入れた。
自分の足音すら大きく感じる、静かで何処か冷たい、魔物がいる森。
危険なのは分かっているが、荷物は捜さなくては。
薄く星明りが照らす明るめの道を歩いていき。
やがて、その先にある暗い、踏み入ったことのないような真っ暗な闇のまん前に、ポツンと置かれている自分の篭を見つけて。
「あ……私の篭……!」
安堵して声をあげ、思わずそちらに駆け寄った。
篭を持ち、取っ手が若干酷いことになっているが中身や他の部分は無事だった。
安堵の息が漏れるところだが。
それは、見知った魔物の狼とは別の生温く、生臭い何かの息で奥へと引っ込んだ。
冷や汗が流れる。
硬い動きで闇の中を凝視した、その瞬間に見えたのは。
自分と同じくらいの大きさをした、二つ首が生えて顔同士がくっ付いているような奇妙な、おぞましい四足歩行の魔物が唸っている姿だった。
べっとりとしている体毛。
立ち込める異臭に今更気がついた。
闇に目が慣れてきて、奥にいくつもの骨が、腐った肉があることを知って。
思わず吐き気がこみ上げる。
獣なのに、口元がニタニタと気色悪くめくれ上がり、つり上がり。
恐怖でルナをすくみあがらせるには十分なものがあった。
篭をギュッと抱きしめる。
血の気が引くのを、久しぶりに感じていた。
ベチャリベチャリと気味の悪い足音が近づいて。
近寄ってきたその顔と四つの目に射抜かれ、震えるだけで身体はまったく動かない。
腰が、抜けた。
魔物が此方に後数歩、という距離まで近づいて来たと同時に。
断続的な地響きが起こって、魔物が動きを止めて周りを見回す。
そしてその瞬間に。一気に周りが暗くなった。
ドズゥゥッ!!
形容しがたいそんな音と、身体を浮かび上がらせるほどの衝撃。
地面が縦に揺れた。
魔物もその場に倒れて更に腐敗した土で身体を汚す。
そしてその瞬間。
ズァッ、と目の前にいきなり黒いものが現れて、身体全体を捕まえられて持ち上げられると同時に。
グッチャァッ!と熟れたトマトが潰れるような音と、魔物の小さい断末魔が聞こえたような気がした。
「あぁ気色の悪い!こういう狡賢さのある低能な魔物が一番嫌いだ!同属だなどと考えたくもない!」
何処かで聞いたような声が上から響いて何回か足音を響かせると、一際大きい衝撃が来た。
黒く生暖かい空間から開放され、温かい床の上にへたり込んでいる自分が見上げたのは、遠近法が狂ったように巨大な顔。
耳のあるところには、狼の耳が横向きに生えている。
「お前はなんで起こさない!もう少しでアイツの胃袋の中だぞ!」
見覚えのない巨人の男性に怒鳴られ、ルナは混乱しつつ思案を纏めようと頭を抱える。
それを暫く見ていた男性は息を吐き顔をグイッと近づけた。
「俺が誰か分からない、なんていうつもりじゃないだろうな?」
「えーっと……」
「……あれだけ懐いておいて」
「……おおかみ、さん?」
「……そうだ」
顔がゆっくりと傍により、呆然としたルナの言葉に縦に振られる。
ふわりとした毛髪が揺れ、嗅ぎなれた臭いがルナの鼻腔をくすぐる。
あ。
狼に身を預けたとき、感じるこの臭い。獣臭さ。
顔から視線を離し、乗っている場所から身体を見れば黒い動物のような体毛がぴったりとした衣服のように身体の所々を覆っている。
彼はどうやら座っているようだが、木の天辺に近い場所が自分と同じような位置にあって軽く目を白黒させているときに。
「なんだ?どうした?とりあえず俺の問いかけに対する返答がまだだぞ?ルナ。
何で起こさなかった」
「はわっ!!」
何でこんなに大きく、と思っている間に言葉を投げられ、鋭利な爪が生える指先で手の平に押し倒された。
怪我をさせないように、指の腹で腹部を軽く押されただけだがそれでも、コロリと文字通り手の平で転がる。
「さて、なんでこんなことになったのか、説明してもらおうか?本気で心配したんだぞ」
「えぇっと……お、起きたら篭がなくなってて……!すぐ見つかるだろうって、それで……!!」
「……そうか。確かに人間にあの場に残った若干の腐敗臭は嗅ぎ取れないしな……
ふむ……まぁ、仕方ない。次からはちゃんと起こせよ」
「うん……ご、めんなさい……っ」
指先で頭を撫でられることに若干の戸惑いやなんともいえない感覚があるが、それでも。
優しいその手つきに安堵して、恐怖から開放されたと理解して。
ポロリと涙がこぼれる。
止まらないそれに目元を覆うと、彼女は小さく嗚咽を漏らしだす。
「あぁ、泣くな……困るだろうが。
まったく、お前は本当に世話が焼ける」
「だって……!」
目をごしごしとこすってから、また周りに影が落ちて。
上を見上げると、狼の嗅ぎなれた生臭い吐息が吹いてきた。
犬歯が覗く唇が薄く開いて、伸びてきた狼のときとは違う分厚い舌先が顔を舐める。
「んむっ」
「……ほら、しょっぱい。お前はそんなものを流すな」
グイグイと舌先で顔を舐められ、離されると唾液で湿ったそこを指先が軽くこすりぬぐう。
彼にとってはチロチロと優しい舌捌きだっただろうが、結構な力強さがあって軽く戸惑う。
「お、狼さんって……巨人にもなれたの?」
「いや、むしろこっちが本来だ」
「へ?」
「狼は化けているだけに過ぎん。身体も隠れやすいからな」
この大きさだと目立ちすぎる、とルナを撫でていた片手を握ったり開いたりして大きさを見せ付ける。
自分の身体と同じくらいある手が開閉する様がなんだかすごくて、ルナはジッと思わずその動きを眺め続けていた。
「お前を捜すために変化をといたが、今度は夜目が利かなくなる。困ったものだ。
何とか腐敗臭だけを頼りにそちらに移動してお前を見つけられた。まったく。次からは本当に一人で動き回るな」
この森ではな、と父親か兄のように注意してくる巨大な獣人。
その言葉にルナは暫く顔をうつむかせていたがやがて、笑って。
「えへへ……はい、分かりました!ごめんなさい」
「分かればいい。友を失いたくはないからな……だが、少し仕置きは必要か?」
「へ?」
「クク、暴れるなよ?」
「え?え??」
少し意地の悪い顔で笑う狼だった彼の口が傍により、ルナの身体を無理に後ろに向かせると同時に舌先が背中を舐め上げる。
ゾクッ、と身体が震えたと同時に、服が後ろに引っ張られる感覚。
上の服が胸に突っかかるまでめくれ上がり、足場も下がる。
やがて、宙ぶらりんな状態になってルナは目を白黒させた。
「え?狼さん!?え?あれ!?」
「ははへぅな(暴れるな)」
「はぅわっ!」
後ろから聞こえたものを口に含んでいるような反論。
それに驚いたルナが上を見れば、生温かい息が漏れる二つ穴。
「……?ぉい、はにいへる?(おい、何してる?)」
「えーっと……狼さんの、鼻……見てます」
「ひぅな!ほんなはひょ!!(見るな!そんな場所!!)」
「だ、だって見えるんだもん……」
小さく反論を返すと同時に、グンッと身体が揺さぶられる。
「うひゃっ」
「ククッ、ほほぅぞ(戻るぞ)」
「え?戻るっていった?え、でも、どこに……!?」
周りを見回し声を上げている最中に、身体が風と衝撃に揺れる。
一気に高くなっていく視界に目を回しかけて首を振り、下からやってきた彼の指が身体をそっと押さえて揺れを止める。
離される指先はそう離れることはなく、自分の下に添えられるように動きを止め、彼が歩き出す。
人間が歩くときもきっと、こんな風になるんだろうなと考えるほどの縦揺れをルナに感じさせながら。
暫く口に咥えられて揺られること数分間。
一際木々が鬱蒼と茂る場所に連れてこられた。
しかし、ところどころ木々の葉っぱの隙間から月明かりが入り込み神秘的な感じを受ける。
昼間なら日差しがカットされ、過ごしやすい木陰になることだろうなと感じさせるほど。
広いその空間に、巨大な彼が入ってもある程度のスペースはある。
奥の草木が敷き詰められているような場所に近づくと、彼は身をかがめてその上にルナをそろりと降ろす。
彼を見上げると同時に、今度は狼に一瞬で切り替わった様子を見れば首を傾げた。
「何で戻っちゃうの?……いや、戻るというか、逆に化けるの?って聞いた方がいいね?」
『あの姿だとお前と寝たとき潰してしまいそうで怖いからな。
……人間の身体は小さくか細く、脆く壊れやすい』
狼姿で後ろに回りこむように移動し、また尻尾と胴体にルナを挟み捕まえると草木が敷き詰められているその上に身を横たわらせる。
「狼さん?」
『もう遅すぎる時間だ。今町に帰っても夜道は危険だろう。
今日は俺の住処で寝ていくといい』
「狼さんの家なの?」
『あぁ。ここは俺の住処だ』
「……綺麗なところだね。えへへ、お邪魔します」
『ゆっくり休め。危ない目にもあって疲れただろうからな』
狼の鼻先が頬をこするように押し付けられ、擦り付けられる。
それに笑顔で頷くと、また狼の体毛に身体を埋めた。
「気持ちいい」
『それは良かった』
「おやすみなさい、狼さん」
『あぁ、お休み』
自分の数倍も大きさが違う人間の少女が自分に身を預けて眠る。
もう寝入った少女に、なんて寝つきの良さかと苦笑して、彼はその身体を守るようにくるりと丸まると寝顔を横目で見つつ小さく笑うと同時に思い出す。
【あの!私ルナって言うんです!助けてくれてありがとう!狼さん!】
口元を血に染めた自分を見上げて、恐怖に顔色を悪くはしていたものの、それでも気丈に笑顔で感謝を述べるルナに。
少なからず興味を持ってしまった。
物足りなかった魔物の次に、食おうかと考えていた捕食の対象が、そう見えなくなった。
久しぶりに会話をした。
久しぶりに敵意なく触れてもらえた。
魔物にも時間がたてば感情や理性や、知識は蓄積され芽生えていく。
生き物だ。当然の摂理といえた。
魔物の自分と仲良くしてくれるこのか弱い少女を、護りたいと思うようになるのに時間も掛かりはしなかった。
『ルナ』
自分は魔物で、何年もまだ生きる。
人間より長寿なのは、魔のものだから。理解している。
自分より若いこの少女はすぐに消えていく。
花開いたような今の時期もすぐに消えて、枯れて行くだけ。
『人間は命が短い。魔の物からすれば儚すぎるほど』
気持ちよく眠る彼女に、囁く。
暫く寝顔を見つめていたが、彼はやがて瞳を閉じた。
『それでも、お前という人間の友を失いたくないと思う俺はワガママなのだろうな』
この呟きは誰に対して言っているのか。
自分でも理解できなくて、彼はククッと小さく笑い。
彼もまた、まどろみに落ちた。
身体に愛らしい友の体温や心音を感じながら。
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